アバドのマーラー

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 アバドの指揮したマーラーの「第9」と「第10」の交響曲は驚くべき明晰さで響いた。

 アバドのマーラーを聴いたのはこのCDが初めてである。
 マーラーは長い間バーンスタインがすべてだった。テンシュテットもレヴァインもクレンペラーもバルビローリもバーンスタインほどには感動できなかった。わたしにとってバーンスタインのマーラーは別格である。

 アバドはこの曲に過剰な感情移入をしない。そういう演奏をわたしはあまり好まなかった。

 音楽とは曲の流れが微妙な感情の彩に沿って成立するものだ。
 その機微に触れてわたしたちは豊かな情感を味わうことが出来る。
 スコアを前にして自動ピアノのように弾くというのは、人が感情に囚われた存在である限りありえない。
 そういう認識のうえで、その極限としてわたしはバーンスタインのマーラーを「別格」だと評価している。

 だがアバドが提示したこの演奏は何だろうか?

 アバドは演奏の向こうにマーラーを表現した、とでも言えばよいのかしら。
 演奏の最中にわたしはマーラーの抱えていた冷え冷えとした魂を見るのである。
 アバドのマーラーから慟哭や悲鳴は聞こえて来ない。
 バーンスタインが共鳴した人間のドラマは見いだせない。
 しかし何とも無気味で、冴え切ったマーラーの孤独だけがくっきりと、鮮明に暴き出されている。

 ベートーヴェンの第9にあった神や愛からは遠ざかってしまった晩年のマーラーの心象風景が「ぽかり」とわたしの目の前に示される。
 わたしは首実験をするようにマーラーの孤独に向き合う。そして、彼の孤独が今のわたしらの抱えるそれと余り変わらぬことに気づき愕然とするのである。
「やがて私の時代が来る」
 と言い残して死んだマーラーだったが、アバドの演奏はその予言をわたしたちに事実として突きつけているような気がする。