ミッシェル・ベロフのこと

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 ベロフとの出会いは高校生の頃の話だ。

 わたしのクラシックへの傾倒はこの時期から始まった。高校から大学にかけては小遣いの大半をクラシックのレコードと本代に注ぎ込んでいた。
 音楽会にも顔を出していたが今でも印象に残っている演奏が、朝比奈隆で大阪フィルのブルックナーの7番の演奏を聴いたとき、リヒテル、ワイセンベルグの演奏会、ムラヴィンスキーの指揮するレニングラードフィルの演奏、バーンスタイン、ブーレーズの指揮でニューヨークフィルの演奏を聴いたとき、そしてベロフのピアノ独奏会に出掛けたときである。
 これらの演奏会は大抵、フェスティバルホールで行なわれたが、ベロフの演奏会だけは大阪厚生年金ホールで実施された。ベロフの演奏にすっかり気分が高揚したわたしは興奮して、夜の四ツ橋通りを梅田まで歩いて帰った。
 ベロフというピアニストのことはよく知らずに演奏会に行った。わたしより4つほど年配で、そうとは思えないほど少年のような顔立ちで、どうして聴きに行ったのか、今では思い出すことも出来ない。何を聴いたのかも思い出せないけれど、音楽を聴いてとても幸せな気持ちになれた記憶が鮮明に残っている。
 音はふくよかで、豊かで、明晰で、そんな演奏ではなかったかしら、あの夜のベロフは。フランスのピアノ曲を真正面から受け止めた夜だった。
 生暖かい空気の大阪の四ツ橋筋を、わたしはその夜に覚えた何かの曲のフレーズを口ずさみながら足早に歩いた。ドイツ音楽中心だったわたしに新しい世界が開けてきたような気がした。そこからベロフといえばフランスのピアノ曲という回路ができて、わたしはフォーレ、ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲を熱心に集めだした。

 その後、ベロフの噂を聞かなくなったのは決してわたしが音楽会から遠ざかったためではない。いつからともなく、ベロフの話題が世間から消えてしまったのだ。その理由はアルゲリッチが演奏したラヴェルのピアノ協奏曲の解説を読むまで全く知らなかった。
 ベロフは1982年に右手を負傷し、ピアニストとして舞台に立てなくなったというのだ。ラヴェルにはご存じのように「左手のためのピアノ協奏曲」という作品がある。第一次世界大戦で右手を失ったアマチュアのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタイン(哲学者、ヴィトゲンシュタインの甥)がプロコフィエフとラヴェルに依頼して作曲されたふたつの左手のためのピアノ協奏曲の一曲である。アルゲリッチは友人のピアニストに再起のチャンスを与えるために、1984年にこの曲を二人で録音した。このCDはだから、アルゲリッチがト短調の協奏曲を演奏し、ベロフが左手の協奏曲を演奏するという豪華なものである。その演奏を聞いているかぎりではベロフにハンデを感じることはない。
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 忘れていたベロフに申し訳ない気がして立て続けにCDを買い集めた。若いころに演奏していたドビュッシーの練習曲集やプロコフィエフのピアノ協奏曲全集やメシアンの「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」などである。
 プロコフィエフのピアノ協奏曲全集は1974年の録音であるが、当時、プロコフィエフの全集を録音しようというピアニストってソ連以外の国でいただろうか。メシアンはこのベロフというピアニストを非常に可愛がっていたと聞く。
 ドビュッシーの練習曲集を録音したころ(1970年)の面影に比べると、1974年のベロフは髪形もオールバックにして、ひねた印象がする。わたしが厚生年金ホールで聴いたころはまだ20台前半だったはずだ。彼はわたしにピアノの音色の面白さや、感覚的な妙味を知らしめた最初の人だった。
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 そうそう、同じ会場で同じベロフを聴いたひとと数十年を経て出会ったことがある。のちにスタインウェイの調律師になった方だった。音楽の力はすごい。