解決の和音

アニメ「ピアノの森」が佳境に入ってきた。

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 友人が
「マズルカってやっぱりいいなぁ」
 といってきた。

 今年はポーランドと日本が国交を樹立して100年。
 そういうことでショパンを通じてもっと交流を図ろうというイベントが全国で行われる。「ピアノの森」のアニメ化もその一環なのかもしれない。
 聞けばポーランドはずいぶん親日の国だという。

 しかし、今回はマズルカの話ではない。

 わたしがショパンの「前奏曲」を通して聴いたのは、2016年に亡くなられた中村紘子さんが、1992年に尼崎のアルカイックホールで開いたコンサートだった。
 ひどく印象に残る曲があった。全体が不安定で、まるで語れない思いを語ったような印象の一曲。聴いたことはあったはずだが、こんなに印象に残ったことがなかった一曲が、第2番のイ短調だった。
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 わたしはこの曲を聴きなおすためにポゴレリチの演奏したCDを買ってきた。
 主旋律が奇妙なこの曲はひどく不安定な印象を残す。最後の数小節がなかったら、ロマン派の作品とは思わないだろう。だが、この曲は最後に左手がアルベジオでその不安定な情緒をそっとぬぐい去る。
 ここでは最後の和音が聴く者の情緒の不安定さに解決を与え、聴き手は救われたのである。

 それで思い出した評論があった。

「解決という和音の常識はもはや彼を束縛することが出来ない。和音の概念は破られ、旋律の流れが音の流れを決定し、構成そのものを決定する」

 彼とはバルトークのことであり、この文章は作曲家、小倉朗の書いた「現代音楽を語る」という本にある。「和音を解決である」と表現した文章の持つ意味に、わたしは長い間気が付かなかった。
 確かにバルトークの作品は、解決されない印象を残したまま終わってしまう曲が多い。
 昔、娘がピアノの練習を始めたころに、わたしは「ピアノの初歩」という子供のために書かれた楽譜を買ってきて、試しに自分で弾いてみた。だが、最初の二曲で躓いてしまった。どうしても、最後の一音が納得出来ないのだ。何故、この音で終わらなければならないのか?
 その音はひどく座りの悪い音にしか聞こえないのである。
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 小倉朗を読み返すと実に様々なバルトークの作品に関する論評が出てくる。
「ヨーロッパの近代音楽の歴史は、三和音体制という舞台の上で演じられた調確立と破壊のドラマである。今日の厳しさはそれ故としても、アンセルメはその終幕に立ち会い、そこに展開する革命家の破壊的な行動と、その渦中にあって新しく調的な意義を捉えようとする音楽家の演技をみたのである。前者にシェーンベルクとストラヴィンスキー、後者にバルトークの名をあげれば足りよう」(前掲書、26頁)
「『14のパガテル』は⋯和音を背景的に扱うことによって、解決という鉄則を超越している。背景的な和音は、その性質上、在来の和音が果たしていた機能的な働きを失うのは必定で、代わって、強度にリズム化され、打楽器的な役割にまわるのも自然の勢いである。『アレグロ・バルバロ』はその一例だ」(前掲書、193頁)
「解決という和音の常識はもはや彼を束縛することが出来ない。和音の概念は破られ、旋律の流れが音の流れを決定し、構成そのものを決定する。;この大胆極まる書法は、『14のパガテル』に端を発して、曲折を経て『ミクロコスモス』『2台のピアノと打楽器のソナタ』に至るが、僕を悩ます不安定な音の表情は、これらの初期にまず現われてくる」(前掲書、189~190頁)
「ところで、そうして作品をみていくうちに、やがて別の難問に出会うことになった。彼の音のある不安定さである。そういう音と出っ喰わして、じっとみつめていると、音がまるで僕をからかうように動き始める。絶対にこの音でなければならないかという問に、答を与えぬというふうに動くのである」(前掲書、174頁)

 バルトークは「オケコン」を除いて、今も苦手だ。

 バルトークにある不安。
 ムンクの絵画に通じるような不安である。

 しかし、ショパンもほんの際まで来ていた。

 「前奏曲」を聴いてそう思ったのである。