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zoom RSS もう一度「太平記」

<<   作成日時 : 2018/02/12 11:13   >>

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 昨年は中公新書の「応仁の乱」が売れた。
 なぜかしら?と思っているうちに「観応の擾乱」まで登場していた。

 「観応の擾乱」なんて授業で習ったかしら?南朝の勢いがなくなった頃に北朝で起きた足利家の兄弟喧嘩くらいの印象しかない。

 「太平記」が一番盛り上がる場面は何といっても「湊川の合戦」だろう。
 その後の足利家内紛なんて、
 「せっかく勝ったのに、内輪もめして何やってんだ?」
としか思わなかった。
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 大河ドラマ「太平記」ではどうだったか?
 大河は吉川英治の「私本太平記」を原作としている。原作は全部で八巻だが、第八巻に入ってやっと湊川の合戦となる。
 ここまでは丁寧に書かれているが、その後の顕家、義貞の死、後醍醐の崩御も記述は少ないし、尊氏の死後は描かれていない。
 「太平記」といいながら「私本」は足利尊氏の一生を描いただけで終わり、それも湊川までが中心なのである。

 それゆえ大河ドラマも尊氏の死までしか描かれていないが、全49回のシリーズで「湊川の決戦」は第36回、「顕家散る」が39回、「義貞の最後」が40回、「帝崩御」が41回なので原作よりは詳しい。

 また「観応の擾乱」についても第43回から最終回までをあてるなどして、原作以上のてあてをしている。ただ、そこにある対立の構造は不明確で、尊氏さえしっかりとしておれば、無用の混乱は避けられたのではなかったか、とついつい考えてしまう。

 擾乱のきっかけは、楠木正行を破った高師直の権力の高まりから始まった。師直は足利家の執事である。尊氏はこの頃、すでに政務を弟、直義に預けている。

 直義はあまり闘いが得意ではなかったのだろうか。
 九州へ落ちたときの多々良浜の戦い以外は、ここぞというときに勝てない。
 たとえば中先代の乱のときも負けて尊氏が応援に行ったし、そのために今度は鎌倉から離れられなくなった尊氏を討ちに来た新田義貞との戦いでも負け、尊氏が放っておけなくなって出陣し、尊氏はそのまま京都へ雪崩込み、建武体制は崩壊する。
 のちに、楠木正行が兵をあげたときも、直義と一派の武将はこれに負け、高師直・師泰兄弟が参戦して打ち破ったため、両者の不和が表面化し、擾乱のきっかけを作ってしまう。戦に弱い文民派の総領が直義で、武断派の総領が尊氏、という整理をしている。

 観応の擾乱でのひとつのピークは直義の死であり、これが暗殺であったのか病死であったのかについては今日でも議論がある。大河は兄、尊氏による毒殺としている。しかし、政治的失敗を繰り返した直義の気鬱から来た病死という説もある。
 兄による弟の毒殺というドラマは刺激的である。個人的に、あのシーンは大河ドラマ史上でも最高の演出のひとつであったと思う。
 結局、直義の死によっても内紛は終わらず、直義派は直義の養子で実は尊氏の庶子、直冬を擁して対抗を続ける。直冬は京都まで進軍し尊氏を追い詰めながら突如、兵を引き、尊氏はかろうじて勝利を得る。父の愛を得られなかった庶子の反抗と赦しという筋書きで幕を閉じる。これが大河「太平記」の解釈だった。
 この解釈が今の研究からすればどのようなものなのかは私には判断できない。原典の「太平記」は二代将軍義詮の死までを描いているが、ご存じのように、この段階ではとても「太平」の世になったとは言い難い時期である。

 「太平記」を原作とする大河ドラマはもう一度、リメイクするべき意義をもっていると思う。
「足利三代」なんかやってほしいなぁ。

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