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zoom RSS 「街道をゆく」をゆく(大徳寺散歩)

<<   作成日時 : 2015/12/23 23:13   >>

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 紅葉で賑わう京都の高桐院へでかけた。

 ここは細川家の菩提寺であり、大徳寺の一角に遇している。
 細川幽斎をはじめとする歴代当主の墓が並ぶ。
 その囲みから外れて、二代目忠興の墓がある。
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 創建者ゆえか独立してあり、妻ガラシャとともに利休から譲られた欠け灯籠の下に眠る。

 以前、宮津を訪れたとき、市役所の脇の公園に細川ガラシャの銅像を見つけた。

 大手川のほうに向かって手を差し伸べ、すくっと立っているお姿はなかなか魅力的で、その背後にカトリック教会が建っていたこともあり、一体感のある、よい風景だった。
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 ガラシャは明智光秀の娘だったため、本能寺の変後、離縁され、宮津近くの「味土野」という地に幽閉された、という。
 その後、夫の忠興が秀吉に尽くしたため、許され復縁した。
 離縁だったのか、かくまったのか?
 その辺りはあれこれ想像できるところだ。

 彼女が宮津にいた時間はどれほどだったのか。
 義父の幽斎が丹後の国主になったのが天正8年。本能寺の変が天正10年。許されたのが天正12年だから、実質的には4年ほどを宮津で過ごしたことになるのだろうか。
 ただし、味土野という場所は辺鄙な土地だったようで、実質的に宮津にいたといえるのは天正8年から10年の2年間だけだったのかもしれない。
 理不尽な運命に襲われた土地だったと思うのだが、この銅像の凜々しさはなんだろうか。

 忠興、ガラシャ夫婦については司馬さんが「胡桃と酒」に詳しく書いている。
 司馬さんは忠興を極端なまでに嫉妬深い夫として描いているのだが、この人物像はデフォルメが強すぎる気がして、違和感を感じてきた。
 最近、出版された安廷苑女史の「細川ガラシャ」(中公新書)によれば、忠興が美人として有名だったガラシャを表に出さなかったことを「軟禁」という表現で表している。
 秀吉の漁色の餌食になるのではないか、という憶測を忠興に吹き込む者がいたようだ。

 一方で、現在流布している文献資料などが徳川の観点から解釈されていることに、歴史学者の山本博文氏は注意を喚起している。
 それから勝手に想像するに、秀吉の漁色癖というのもどれほどのものであったのか。これも気になる。

 家康の側室は16人だったようだが、秀吉は13人。家康は子に恵まれたが、秀吉はそうではなかった。
 切実さでいえば秀吉の方に同情したくなるが、秀吉以上に側室を囲った家康は「おんな好き」のイメージから遠い。
 この辺り、勝った徳川の情報操作がなかったか?

 ガラシャはキリスト教徒であったため、その自死について信仰の観点から論じられることが多い。自死を許さない教義との軋轢がどうであったのか、という関心である。安廷苑女史の「細川ガラシャ」(中公新書)はこの点について詳しい考察を重ねている。しかし、山本博文氏はあまりこの点にかまわず、虜囚は「恥」という世間体の観点からガラシャの自死を捉えている。

 細川幽斎、忠興、忠利と続く細川三代については、書名もそのままの春名徹氏による小説がある。
 忠利の死後には「阿部一族」もある。
 「葵〜徳川三代」に続いて大河ドラマでやってもよい題材だと思うが、来年が「真田丸」であれば戦国ものはしばらく先になりそうだ。
 その「真田丸」も多分、三代記になるんじゃないかしら。

 思えば、"Star Wars"だってEpisode7にまでなると、スカイウォーカー三代記になっているのがおかしい。

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