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zoom RSS 円照寺〜「東福門院和子の涙」

<<   作成日時 : 2011/04/03 00:10   >>

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 「江」は「江与」とも呼ばれたらしい。

 日本人名大辞典をひくと、名は達子、通称お江与(えよ)、お江(ごう)、小督(おごう)とある。

 話は、まだ円照寺の続きであって、大河に敬意を表してここでは「お江」でいくが、彼女の産んだ和子(まさこ)が後水尾天皇に嫁したことは、前に書いた。この和子の生涯を宮尾登美子さんが「東福門院和子の涙」で描いている。

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 この作品、最初の章は「母君お江与の方」と題され、お江の半生が詳細に書かれていた。小説では伏せているが、国史大事典によれば、最初にお江が嫁した先は羽柴秀勝。女子をもうけたが秀勝が没し寡婦となった。その後秀吉の斡旋でのちの2代将軍徳川秀忠に嫁いだ。家光、忠長の二男、千姫ほか五女をもうけた。その五の姫が和子である。多産である。

 その和子も後水尾天皇との間に二男、五女を産む。二人の男子は夭逝し天皇の位を継ぐことは出来なかったが、一の姫である輿子が明正天皇として即位。女帝は奈良時代の称徳天皇(「大仏開眼」の石原さとみ嬢ですな)以来である。女帝は結婚できないために、徳川家が天皇家の外祖父として力を奮うことは出来なかった。

 さてこの小説であるが、後水尾天皇の女性関係、といっても、それも天皇としてのおつとめであったのだろうが、に悩む和子の生涯を描いたもの、と云ってもよかろう。和子の父、秀忠は表向き、お江以外に側室をもたず、七人の子をなしたのであるが、後水尾天皇は中宮である和子以外に六人の局と関係をもち、三三人の皇子・皇女をもうけているのである。和子の使命としては、皇子を産んで帝位を継がせることであったのだが、和子の産んだ二人の皇子は夭折し、使命を果たせずに悩む。一方で、和子には内密で、幕府は朝廷に奥医師を潜り込ませ、懐妊した局に堕胎薬を施し、或いは生後すぐに殺害し、和子以外の女性が皇子を産むことを阻止する。

 いやはや、なんとも凄惨な世界である。

 さきほど後水尾天皇には六人の局がいた、と書いたが、そのうちのひとり、お与津御寮人だけは、和子が嫁す前に後水尾天皇と関係のあった女性である。これが幕府の知れるところとなり、お与津御寮人は宮中を去り、二人の子を市中で育てることになる。最初の子は皇子で「春の宮」と呼ばれたようだが、この皇子も夭折。どうも暗殺くさい。次の子が皇女で梅宮。この子がのちに文智女王と呼ばれ、円照寺を開くのである。

 その円照寺は、当初、修学院離宮の近くにあった。というよりも、文智女王の草庵の近くに後水尾天皇が修学院離宮の建設を決めたと「日本歴史地名大系」に記されている。奈良へ円照寺が移ったのはのちのことである。

 「東福門院和子の涙」によれば、文智女王と和子が知り合ったのは随分と後のことであるが、互いに 惹かれ合うところがあったようである。和子が仏門に帰依してゆくのは文智女王の導きによるところも大きい。和子は奈良への移転に際して、円照寺に二百石を寄進した。和子の臨終の場面は次のように描かれている。

 〜いよいよ、六月十五日、この朝、小雨さびしくそぼふり、昨夜よりずっと続いておりました文智女王、文海尼とお供の尼僧たちの読経、一段と高まるなか、わが姫君(和子)さま来世よりのお迎えにこたえ、お眠り遊ばすが如く、安らかにお目を閉じられたのでござります〜

 浅井長政の孫娘は国母として生涯を終えたのである。

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