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zoom RSS はえぼうし峠〜薄墨街道の先

<<   作成日時 : 2011/04/26 23:56   >>

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 「薄墨街道」の先に能郷白山がそびえる。

 根尾川にかかる橋から白い姿をかいま見ることが出来た。「薄墨街道」とか「本巣縦貫道路」とも呼ばれる国道157号線は根尾から先、険路となる。俗に「酷道」という表現がある。157号線もそのひとつだ。

 根尾西谷川に沿い温見(ぬくみ)峠を経て越前大野へ通じるこの道は、この季節、まだ雪が残っている。通行規制も多く閉鎖されている箇所もある。

 今でこそ岐阜・福井県境をぬけるには「温見峠」超えが経路となっているが、幕末は「蝿帽子(はえぼうし)峠」だった。この峠の名前は現在の地図には載っていない。廃道となったようである。

 幕末、この蝿帽子峠を豪雪のさなかに千余名で越えた集団があった。水戸の天狗党である。天狗党は京都にいる慶喜に直訴し天皇へ「攘夷の志」を伝えてもらおうと決議していた。時期は天狗党にとって最悪だった。「禁門の変」に敗北し攘夷派は劣勢に追い込まれていた。幕府は天狗党を叛乱軍とみなし街道を封鎖した。揖斐川まで来たものの大垣藩に中山道で待ち構えられ、行き場を失った天狗党は、谷汲街道を経て美濃から越前へ出ようとした。

 この道がのちの157号線である。

 待ち受けていた大垣藩は天狗党が現れないため探索を行った。天狗党は蝿帽子峠を経て越前大野へ出ようとしているという情報をつかんだが、その道は険路のうえ豪雪のため、とても越前へ到達することは出来ないと判断した。念のために越前の大野藩にも連絡を入れたが、大野藩も冬の蝿帽子峠越は不可能と判断した。その蝿帽子峠越を天狗党はやりとげた。ときに元治元年12月中旬のことである。

 昔から天狗党や天誅組の行動がよくわからない。あまり深く調べたことはない。その末路はどちらも悲惨であるが、冷たく云えば因果応報と云えなくもない。

 「よみがえる大河ドラマ」、二回目の放送では「竜馬がゆく」が放映された。吉村寅太郎が武市半平太に決起を促す。竜馬も熱くなっている。「にえたぎっちゅう」という表現がぴったりだ。吉村寅太郎も竜馬も脱藩する。吉村寅太郎は天誅組に入り吉野の奥で戦死する。あの時代、攘夷熱にうかれた青年が沢山いて、不遇の死をとげた。同時代に、ともに吸っていなければ分からない空気があったのだろう。偶然、ドライブをしていた途中で天誅組隊士の墓をみつけたとき、そう思った。

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 天狗党は蝿帽子峠越をする際、多くの人馬を谷へ失った。今でも「落ちたら死ぬ」と書いてある道路である。そこを超えた天狗党には脱帽するしかない。この峠越の成功を知った大野藩は、慌てて麓の村を焼き捨てた。またしても行き場を失った天狗党は敦賀を目指すが、その途中、前後を討伐軍に挟まれ、武装解除し、投降し、惨殺される。殺した幕吏も見殺しにした慶喜も殺された天狗党も時代の狂気のなかにいた。

 明治時代、陸地測量部の作った地図に蝿帽子峠が記載されている。それに温見峠はない。根尾から蝿帽子峠を越え、大野へ至る道に街道の名前はあったのだろうか。

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