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zoom RSS 円照寺〜「かくれ里」から

<<   作成日時 : 2011/03/03 00:06   >>

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 流石は白洲正子さん、と感服した。

 そういえば谷汲の近くには薄墨桜で有名な根尾があるんじゃないか、と思って白洲さんの著書を探していたら、先日、足を運んだ「円照寺」をとりあげた文章に出会った。百科事典では捉えられない深くて怖い話が載っていた。

 円照寺は後水尾天皇の息女、梅宮の創建によると書いてあったが、後水尾天皇といえば、隆慶一郎氏の「花と火の帝」の主人公であった。未完のまま絶筆となった小説である。この作品の中に梅宮や円照寺が登場するかどうかは、今、手元にないので分からない。売ってしまったかなぁ。隆慶一郎は2代将軍、徳川秀忠を徹底的に悪役にしていたことが印象に残っている。その御台所が江であることはご存じの通り。取り扱わない訳にはいかないだろうから、江も登場していると思うのだがあまり印象に残っていない。

 円照寺については白洲正子さんの「かくれ里」のなかに「山村の円照寺」と題された1章があった。読み飛ばしてはいないはずだが、印象に残っていないのが無念。「この寺には、『山村流』という花道の伝統があり」と書かれているので、せんだって訪問したときに親切に声をかけていただいた老婦人たちは生け花の教室に通う方々だったのだろう。

 以下、白洲さんの本から孫引きすると、

 梅宮は文智女王という。第一皇女である。生母は四辻家の息女で「およつ御寮人」と呼ばれる女性で後水尾天皇の寵愛が深かったという。徳川幕府が天皇家への干渉を強めていた時期で、秀忠には息女和子を後水尾天皇に入内させる計画があったのだが、大阪夏の陣や家康逝去があってのびのびになっていたらしい。その間におよつ御寮人が後水尾天皇の寵を受けるようになったため、秀忠は激怒した、とか。

 ちなみに和子の母は江である。和子は明正天皇はじめ一皇子、五皇女を産んだのであるが、後水尾天皇の他の后腹の子らはみな殺されたり、流産させられたと白洲さんは書いている。

 凄まじい話である。

 こういう展開があったからこそ、隆慶一郎氏の「秀忠悪漢説」の筆も冴えてきたのだろう。

 ちょっと、気になりだした。近いうちに買い直そう。

 それにしても、よくぞ文智女王が無事でいられたものだ。文智女王自身は十三歳で嫁いだが三年後に自ら願って離婚。以後、仏門で研鑽を積んだという(国史大事典)。白洲さんの文では十四歳で降嫁、二〇歳で離婚となっている。国史大事典では元和五年(1619年)生まれ、寛永八年(1631年)に結婚、同十一年に離婚となっている。この辺りどうなっているのかしら。仏門へ入った理由が想像しやすいだけに、十三歳で結婚し、十六歳で離婚というのは少し早過ぎるような気もするのだが。

 円照寺の清楚で質素な佇まいからは夢想だに出来ない過去である。

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