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zoom RSS 「武士の家計簿」〜幕末辺りの料理

<<   作成日時 : 2010/12/30 23:23   >>

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 猪山家が倹約生活に入り、ご亭主の弁当の中身はおにぎりにサツマイモという、炭水化物づくしに替わった。

 毎日の御膳も例えば、鱈一匹を昆布じめ、焼き物、白子の酢醤油などバリエーションをつけることで工夫をこらした。

 家計リストラ宣言以前の場面だったかどうか、はっきり覚えていないが、家先に豆腐売りがやってきたとき、豆腐が縄でゆわえられた状態で売買されていた。

 おお!これか。

 昔の豆腐はこうして売られていたという話を読んだ記憶があった。縄でぶらさげられるほど、堅さのある豆腐とはどんなものか?と興味がわいたが、実物を見たのは初めてだった。

 毎度、司馬遼太郎の「街道をゆく」からの引用で申し訳ないが、同書では二度にわたって豆腐談義が展開されている。ひとつは「壱岐・対馬の道」のなかにある「豆腐譚」。もうひとつは「嵯峨散歩」のなかの「豆腐記」。

 ここに高知県の豆腐は固く、縄でからげて持ち帰る、という話が出ていた。妻は土佐の出であるが、そんな豆腐は知らないと云う。

 わしは湯豆腐が大好きで、これさえあればいくらでも酒が呑める。親子二代にわたってこれで晩酌をしてきた。「花神」で大村益次郎を演じた中村梅之助が、湯豆腐を肴に、奇妙な手つきで、ぐいぐいと杯をあおる姿を見て、日本酒呑みのスタイルを刻印された。

 同じ時代、アーネスト・サトウは、外交官として日本の藩主などから接待を受けている。まめなサトウは献立を今日に残してくれた。

@ まず、高級接待を受ける際の料理の紹介である。

 最初に吸物。魚肉煎餅(蒲鉾、ハンペン?)、白豆の砂糖煮、生魚、焼魚、煮魚、刻んで煮た鶏肉、野鴨の焙肉などを盛った皿が次々と出され、鶏肉と鰌と大粒の銀杏でこしらえた一種のプディング(茶碗蒸?)が各自の膳につく。生魚は刺身でたいてい鰹か鮃。醤油と海草、すりおろした山葵で食べる。饗応の終わりに近づくと二番目の吸物が出て鰻の蒲焼きが出る。最後に客が飯を所望する。これは十分に満足しました、という意思表示だ。飯を盛った椀とふたつの吸物の椀、それに鯛という儀式用の魚をつけた膳が運ばれる。飯を2、3口食べて女中に椀を渡すと薄い茶か白湯をついでくれる。これを塩漬けの大根か酒粕をつけた瓜の一片をおかずにしながら、飯をかき込む。漬物で食べるお茶漬けですね。

A 四カ国艦隊が下関を砲撃したとき、休戦後サトウは下関に上陸して昼食をとっている。

 まず西瓜!。次いで鮑の砂糖煮。スッポンの吸物と飯。鮑は固くて苦労したようだ。

B サトウが宇和島藩を訪問した際、四賢候のひとり、伊達宗城と会食した際は、

 羽毛がそっくり生えたままの野鴨。大きな伊勢海老、儀式につきものの大きな鯛の焼物。野鴨は、鳥の形を残したままで、趣向が凝らされていたようだ。

 サトウは、海援隊に嫌疑がかけられた英国水夫殺害事件(イカルス号事件)後、調査のために高知へ出張しているが、その際、山内容堂から、非公式に一席設けられている。このときのメニューは記録されていないが、鰹のたたきは食べているだろうな〜。龍馬はこのとき、別行動で高知に向かった。脱藩浪士の立場では上陸も出来ず、沖合の船の中で実家を前にして、天を仰いでいただろうか?ちなみに「龍馬伝」ではこの場面は取り上げられていない。サトウも悪漢扱いだった。

 そのサトウは加賀藩へも行った。1867年8月10日に七尾を発ったサトウは8月12日に金沢に到着している。このときの宿は堤町の長瀬屋成太郎方。饗応役は藤懸十郎兵衛。藩主は理由をこしらえサトウと同席しなかった。このときの会席料理がどのようなものであったのかについては、手持ちの資料では分からない。加賀料理であり、政治的背景もあり、さぞかし、豪勢なモノではなかったと思うだけである。

 このとき、猪山家のひとびとは何をしていたか?

 直之(堺雅人)は藩主の側近中の側近。息子成之は、この年の春、江戸から京都勤務に異動。おそらく倹約時代は去り、親子でのダブル・インカムで家計も一息、ついていた頃ではなかったか。

 この当時の時勢で云えば、加賀藩は親・慶喜であり、成之は会津藩とともに薩長と対立する立場で、加賀藩の兵站を担い、算盤をはじいていた。英国外交官であるサトウは、日本海側の開港候補地を視察に新潟へ行ったのだが、新潟は良港とは云えず、七尾を視察したのち陸路で大坂へ戻る途中、北陸道を歩き金沢に立ち寄ったのである。親・慶喜の藩論がある以上、薩長に荷担していると思われていた英国外交官を直接、歓待することも出来ず、かといって、外国との貿易面のメリットをむざむざ逃すわけにもいかず、ということで、加賀藩はサトウと藩主の直接面談は避け、重役を饗応に差し向けたのではないか、と想像される。

 猪山直之は、サトウの接待費の伝票に目を通しただろうか?
 こういう歴史の重なりは、想像するだけでも面白い。

 去年の今頃は、金沢で加賀料理を食べておりましたなぁ〜。
 ひどい大雪でタクシーを呼んだら、「おともが参りました〜」とお店のひとにいわれ、仰天したことを思い出した。

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