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zoom RSS 「龍馬伝」〜生涯最後の旅

<<   作成日時 : 2010/11/27 09:32   >>

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 龍馬、生涯最後の旅は京都〜福井の往還であった。

 その旅路は北国街道であっただろう。当時、龍馬が琵琶湖周辺を徒歩でいったのか、航路を使ったのかは知らない。鉄道が通るまで琵琶湖は北陸へ出る際の水路として利用された。大津から湖北の塩津、或いは海津まで舟で行った可能性もある。

 高月、木之本は北国街道の宿場町。渡岸寺もその回廊にある。

 去年、地蔵盆の頃、伊吹山へ行った。その帰路、木之本で食事をしようと思い駅前に車を停めた。木ノ本駅から東へ伸びるゆるやかな坂道は木之本地蔵院への参拝客と屋台で大変な賑わいだった。鄙びた街の情緒を期待していたのに当てが外れた。周辺の住民が全て出てきたのではないかと思うほどの混雑で、おかげで飲食店も夜遅かったにもかかわらず営業をしていて、北国街道沿いにあった「すし慶」という立派な料亭で食事がとれた。

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 渡岸寺の帰路、また木之本で夕食をとろうと思い、駅前に車を停めて店を探したのだが、どこもやっていない。まだ6時にもなっていないのに、街は暗く、人通りもない。かなり歩き回ったが見つからない。去年の地蔵盆のときが、幻のように思える。

 うろうろしていると、バットをかついだ高校生が「こんばんは」と元気よく声をかけてくれた。やはり、この辺りの人たちは礼儀正しい。
 結局、「すし慶」が営業しているのを見たのだが、同じ店に入るのも如何なものかと思い、やめにした。街道筋の暗い町並みをジグザグに歩きながら、龍馬はこの道を歩いただろうかと思った。

 アーネスト・サトウが看破したように、幕末の日本という国体のなかで、江戸幕府は軍務局にすぎず、軍務局が外交を担うのは奇妙なことだった。外国との条約にいちいち、朝廷の勅許が必要であれば、朝廷と直交渉をしたほうが早い。大政奉還前の幕府と朝廷は、兵庫開港と長州赦免を巡って紛糾していた。

 幕府は海外貿易の実利を独占するために兵庫開港を朝廷に迫っていた。朝廷は依然として外国人を夷狄として毛嫌いしていた。京都に近い兵庫開港はもってのほかだった。この公家の反発を利用していたのは薩摩だ。幕府から交易権を奪うため、兵庫開港の阻止に策略を巡らせていた。貿易の実利を幕府だけに独占させたくない。兵庫開港を前提に幕府は「兵庫商社」を作り国内市場の独占を目論んでいたし、薩長は五代友厚と木戸準一郎が商社連盟を構想していた。互いの実利がからみ政局は混迷の度を増していた。

 大政奉還はなったものの、いきなり政権を返された朝廷に実務能力はない。慶喜が朝廷に諸問題の処理をもっていっても、朝廷は、従来通り幕府でやっておけと答える。どーんと戻ってきた権力を、朝廷は小出しにまた幕府に返している有様だった。万年野党がいきなり政権について、実務能力のなさを露呈したのと同じである。

 大政奉還後の政治スキームはまだ出来ていなかった。第一に、新しい政治体制の財政的基礎はどうなるのか?金がなければ政府は動かないのである。

 龍馬の最後の旅は、財政的基盤を如何にして作ればよいのかを、福井藩の三岡八郎に聞きに行くのが目的だった。三岡は福井藩の財政改革で実績をもっていたが、龍馬が会いに行ったときには、藩内で盛んになっていた佐幕派のために牢に入れられていた。

 すでに薩長は徳川家のもつ天領をすべて新政府に差し出させることで財源を確保しようと企画していた。返さないというのであれば武力で徳川を討つ。倒幕の密勅も用意していた。

 龍馬とは方法が違う。

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 この北国街道を急ぎ歩いていた龍馬の頭の中では様々な計画が煮えたぎっていただろう、と想像する。

 それに比べてこの俺は、 来年の大河ドラマ「江」の観光パンフレットを手に

「どっか、うどん屋でもないかしら?」

 と、うろうろしている。
 

 「龍馬伝」。

 あと1回。

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