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zoom RSS 「龍馬伝」〜寺田屋大騒動(後)

<<   作成日時 : 2010/09/12 17:21   >>

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 まだ前回の続きを。

 くそ暑い中、寺田屋の見学に伏見まで行った。寺田屋の前は二度ほど通ったが、中まで入るのは初めてだ。再建した建物であることが分かってから入る気にならなかったのだが、一度は見ておかねばならない。入場する列に折り返しが出来るほどの人気で「寺田屋騒動」のあとだけあって、寺田屋の中も初詣なみにごった返していた。

 やはり狭い。それに部屋が小割りでチマチマしている。龍馬が泊まっていた部屋は「梅の間」だそうで六畳。表階段から上がれる人数はどう見ても一段に二人。捕方の長棒など振り回せる空間はない。「龍馬伝」の寺田屋はログハウス風だが、当時の建物は天井も低い。「新選組!」でやっていた記憶があるのだが天井が低いために、刀を上段に構えることなど出来ない。天井や鴨居に刀が当たって振り下ろすことは出来ないのだ。沖田総司の得意技「突き」が有効になるわけである。
 「梅の間」から裏階段へはすぐに降りることが出来る。降りたところがお風呂。お風呂とお登勢の部屋は庭を挟んで直角に位置している。お風呂は五右衛門風呂で一人しか入れない。

 司馬遼太郎は「竜馬がゆく」でこう書いている。
 「湯殿は、宿屋のそれだから普通の家庭のものより三倍ほども広い」
 津本陽は「龍馬」でこう書く。
 「おりょうが寺田屋の娘お力と湯にはいっていると、表がざわめきはじめた」

 いやあ、実にいろいろですね。

 もっとも、この建物が、鳥羽伏見の戦いで焼失したのち再建されたもので、それもどこか外の場所から移築された別の建物であればいくら想像をしても虚しいわけで、逆に司馬遼太郎が「湯殿は、宿屋のそれだから普通の家庭のものより三倍ほども広い」と書いていた根拠は何なのかしら、と興味をかき立てられる。

 寺田屋を後にして伏見の薩摩藩邸に向かう。寺田屋の前の川沿いに西へ向かうと川は二股に分かれている。薩摩屋敷は北から流れる濠川の上流にある。けっこう水量があり且つ流れも速い。北へ向かう途中に龍馬が潜んだ材木小屋があるはずだが分からなかった。寺田屋〜薩摩藩邸間は1.2キロとはいえ、酷暑。川風で少しはましだが、うろうろしてまで探し出す気力はなかった。伏見薩摩藩邸は石碑が建っていてすぐに分かった。篤姫もここに滞在をしたと記載されている。

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 次いで石碑のある下板橋を渡って東へ。襲撃した側の伏見奉行所跡に向かう。ここからは緩やかな登り坂になっていて、伏見奉行所は少し小高い場所に位置している。現在は桃陵団地という集合住宅になっている。鳥羽伏見の戦いで消失、その後陸軍の工兵隊基地となり、第二次世界大戦後米軍に接収され、のち市営住宅となった。石垣が僅かに残り、伏見奉行所跡の石碑がひっそり建っているだけだった。

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 昨年見つかった新発見の資料について、高知県立坂本龍馬記念館のHPに記載されている。以下、引用。

 「龍馬たちを襲った伏見奉行所が、襲った翌日(1月24日)に京都所司代(桑名藩)へ報告した記録。第1報は昼頃に書かれたもので、4行目に「坂本龍馬所持書類写取奉差上候可然御取斗奉願候」とある。龍馬の持っていた書類を写し取って、報告書と共に所司代に提出したということだ。所司代が関わっていたことは今まで取り上げられることはなかった。しかも、24日の夜7時から8時の間に書かれた第2報では、肥後守の兵と奉行所の手勢だけでは薩摩藩邸へ踏み込んでも成功は覚束無い、と書かれており、会津藩(京都守護職・松平容保=肥後守)の人員まで出ていたことが分かる。桑名藩と会津藩は、現代の幕末研究者が、「一会桑権力」と呼ぶように、有力幕府方勢力である。桑名藩主の松平定敬は、会津藩主の松平容保の弟で京都所司代を担当し、京都守護職の兄・容保と強力なタッグを組んで、志士らを取り締まった。龍馬の捕縛も単なる伏見奉行所の襲撃ではなく、その上役である京都所司代・京都守護職が関わった大捕物だったことが分かる」

 この「大捕物」という表現から、あの大騒動の映像となったのかもしれないが、果たしてそうだろうか?
 後に、お登勢が龍馬の実家に送った手紙の中に、襲撃の有様が記載されているのだが、それから推察すると、随分腰の引けた大捕物だったように思えて仕方がない。そもそも奉行所側は、龍馬が寝静まったところを襲撃しようと、この時間を設定したようなのだ。

 お登勢は書く(意訳)。

 「客は今、どうしている、と捕手が聞くので、まだ寝ずにお話をしておられますというと、それから捕手のひとが大いに心配し、どうしよう、こうしようと色々恐れ、誰がいけ、かれがいけ、とその混雑ぶりは並大抵のものではなく、こんなひとらが幾万人捕手でやってきても、坂本さんと三吉さんのふたりにかかったら所詮、敵いはしないと思い、安心しておりました。それから捕手が中に入ったと思えば二階が今にも落ちるような音がし、また鉄棒の音がし、怖いことだと思っておりましたところ、皆々、逃げて出る人やら二階から落ちてくるひとやら散々で、わたしもどさくさに紛れて宿の中に入っていったら、もはや坂本さんもいません。二階に煙があがっているので怖々見に行ったら布団が燃えていました。なんとか坂本さんの残した遺留品を隠そうとしましたが思うようにいきませんでした。そうこうしているうちにお二人とももういないと分かってから、捕手がみんなやってきて家中を散々、探し回りました」

 先の新資料はお登勢のこの手紙の内容と結びつく。奉行所は薩長の間に何が起こっているのかを知りたかったのだろう。薩長を結びつける証拠を押収したかったに違いない。龍馬はいわば「重要参考人」としてマークされていたのではないか。そうでなければ龍馬が後にこの模様を手紙に書いた「敵口々に上意なり、すはれすはれとののしりて進来る」という表現がわからない。

 ただ、龍馬はこの騒ぎの中で捕手を撃った。こうなると「お尋ね者」になる。ここから龍馬は所司代、守護職ともに指名手配がかかってしまうのである。

 くそ暑い中「龍馬伝」サントラの第3巻をi-podにつめて聞きながら中書島を歩き回った。サントラにも「これで最後です」と書いてあった。

 やれやれ。

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