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zoom RSS 龍馬伝(第27回「龍馬の大芝居」)追記

<<   作成日時 : 2010/07/04 21:30   >>

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 いよいよ「大河」らしくなってきた。

 「大河」の王道をゆく「龍馬伝」だ。
 もちろん、否定的評価だ。

 どうせ嘘をつくなら、もう少し上手に騙し続けて欲しいものだ。
 最初から「鞍馬天狗」なら鞍馬天狗だと思って見るが、ここは「大河ドラマ」の時間だ。
 資料の少ない「白洲次郎」の場合とも違う。

 「大河」はいつも原作から逸脱する。
 逸脱を理由に攻撃される。
 故に原作者からフリーハンドでいたい、という制作側の欲求は理解出来る。
 原作は大抵の場合小説家で、文を生業とする小説家と映像で見せるビジュアル側の制作意図が異なるのは常である。
 映像は伝える側に与える衝撃の強さが違う。文とは比較にならぬほど強烈だ。
 だがカメラのファインダーに写る世界が、世界の全てではない。
 これは、当たり前の話なのだが、その怖さを知っているのか、わざとそうしているのか。
 映像の世界がもたらすインパクトの大きさを、それに携わるプロはもっと自覚しなければいけない。

 「龍馬伝」とは何か?、と聞かれたら、ここまでの回を見た印象でいえば、それは「ハゲタカ」の幕末版でしかない。

 大河が原作離れを起こすが故に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」は長らく本人の了承を得ず、映像化出来なかった、という記事を読んだ記憶がある。去年から始まったNHK版「坂の上の雲」に映像化のゴーサインが出たのは、司馬遼太郎夫人の「どうせいつjか映像化されるなら、私の目の黒いうちにちゃんとしておいたほうがましでしょう」という了解があったからだとも言われる。

 こういう原作者側の不信を背景にもつために、「大河」が原作離れを意識的に行うようになったのは、制作側の自律的運動として理解出来る。オリジナルな脚本を自社でもつことで、この原作離れの批判からは逃れられるからだ。

 だが、それは決して創造的な行為ではない。

 「龍馬伝」第27回のタイトル「龍馬の大芝居」は、制作者側の「大芝居」に過ぎない。

 史実をねじまげても「面白い」ならそこは分かった上で感心もしよう。騙されて楽しみもしよう。
 しかし、その結果たるや三文芝居の水準にすら達していないとすれば、それは制作側の思い上がりとしかいいようがない。

 「竜馬がゆく」が既に最新の歴史研究の成果を反映していないとしても、その面白さは格別であるし、史実の隙間を縫って物語を展開させる司馬遼太郎の想像力には素晴らしいものがある。緻密でもある。史実の取捨選択、隙間の使い方、ないとはいえない時間に意味を付与する手法。どれをとっても、その芸には裏付けが感じられる。

 来年もまた原作はオリジナル。

 立腹しながらも、そのために見てしまう自分が予想されて情けない。

 
 

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